はじめに
小説を読んでいて、「事件も起きていないのに、なぜこんなに怖いのだろう」と思わせてくる作品があります。
染井為人さんの『悪い夏』はまさにそのタイプで、派手な犯罪も凶悪な出来事も登場しないのに、じわりと胸の奥を掴まれるような緊張と、逃げ場のない不穏さが物語全体に漂っています。
生活保護を受ける人と、それを支えるケースワーカー。
制度に期待する人、制度を利用しようとする人、誤った理解を持つ人、そしてただ生きるために必死にもがく人――。
さまざまな事情を抱えた男女が複雑に絡み合い、静かに、しかし確実に“悪い方向”へ転がっていく。
その過程を見ているだけなのに、読者はいつしか背筋が冷えていくような感覚を覚えます。
本の紹介
読んだきっかけ
私がこの作品を手に取ったのは、同じ染井為人さんの『正体』を読んだことがきっかけでした。
『正体』の人物描写の巧みさ、追い詰められた人間の選択の描き方、物語の静かな熱量――そのすべてに魅了され、「もっと染井作品を読みたい」と思うようになりました。
ただ、『悪い夏』は『正体』とはまったく別のベクトルの怖さがあります。逃亡劇のスリルではなく、日常の延長線上にある“人間の弱さ”が生む恐怖。私も仕事柄、生活保護のケースワーカーの方と関わること多くあります。
生活保護というリアルなテーマを描いたことで、フィクションであるはずの物語が妙に身近に感じられ、「これは他人事ではない」と思わせる力を持っています。
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あらすじ(ネタバレなし)
舞台は、ある自治体の生活保護の現場。
主人公のケースワーカーは、1人ひとり事情の異なる利用者たちの対応に追われる日々を送っています。
その中には、
・経済的に追い詰められ、助けを求めてきた女性
・誰かにすがりたいがゆえに依存的になってしまう男性
・金銭目的で他人に近づく人物
・自分が一番“被害者”だと信じて疑わない人
といった、多様な背景と感情を抱えた人々がいます。
最初は別々に存在していた彼らの人生が、やがて“生活保護”という一点を軸に重なり合い、思いもよらない方向へと動き始めます。
争いはじわじわと形を変え、疑念が生まれ、嫉妬が芽生え、誰かの意図しない行動が別の人をさらに追い詰めていく。
その歪みの積み重なりが、ひとつの夏を“悪い夏”へと変貌させていきます。
事件は起きません。
死体も出ません。
なのにページをめくる手が止まらない――その理由は、心理的な恐怖が終始漂い続けているからです。
感 想
この作品のいちばんの魅力は、“生活保護のリアル”を軸に、非常に繊細な人間描写を積み上げている点にあります。
生活保護制度は多くの人を支える大切な仕組みですが、そこには誤解も偏見も存在します。
「なぜ働かないのか」「本当に困っているのか」
制度とは本来中立であるはずなのに、そこに関わる人々の事情や感情によって、制度はときに“希望”にも“武器”にもなりえます。
ケースワーカーの葛藤も強烈です。
助けたい気持ちと、制度を守るための厳しさ。
信じたい気持ちと、裏切られる恐怖。
現場の空気があまりにリアルで、「これはフィクションなのか?」と疑ってしまうほどの説得力があります。
染井さんは“人を悪者にしない”作家で、どの登場人物にも弱さと正しさが混ざっています。
だからこそ、「なぜこの人はこうなってしまったのか」と理解したくなる。
しかしその理解が、同時に深い不安を呼び起こします。
読んでいて胸の奥に重たい石を置かれたような、そんな独特の読後感がある作品でした。
作品の魅力
- 事件が起きないのに恐怖が積み重なる“静かなミステリー”
- 生活保護の現場という、他にはないリアルな舞台設定
- 複数の男女の利害・嫉妬・依存が折り重なっていく構成の妙
- 誰も一面的ではない“染井為人らしい人物描写”
- 社会問題をエンタメとして読ませる筆力
おすすめ度
社会派ミステリーが好きな人には必読レベル。
また、福祉・行政に関心がある人、人間ドラマの深さを味わいたい人にも強くおすすめできます。
読後には、生活保護という制度の見え方が少し変わるかもしれません。
まとめ
『悪い夏』は、表面だけ見ると「地味」かもしれません。
しかし、静かな筆致で描かれる人間関係のねじれや歪みは、ときに暴力的な事件よりも強烈な恐怖を生み出します。
生活保護の現場というリアリティあふれる設定、多層的に絡む人間関係、制度と人間の狭間に落ちる弱さ―。
それらの積み重ねが、“悪い夏”というタイトルの意味をじわじわと浮かび上がらせます。
『正体』とはまた違う魅力を持つ、染井為人さんの代表作のひとつ。
重くて苦いけれど、確かな読書体験を届けてくれる一冊です。
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